加藤諦三の言葉 第8回 [2000/10/26]

なぜそんなに自分を犠牲にするのか−−従順な人へ
不機嫌になる心理 
(PHP研究所)

 従順な人はよく考えてみることである。相手は自分にとって何であるのか・・・・・・と。相手に気に入られることが、自分の人生の意味になってしまっているのではないか。だから相手から見捨てられたり、嫌われたりすることが耐えられないのであろう。自分をなくすことで人生の意味を見失い、人に気に入られることが生きる意味になり、その結果、ますます自己不在になっていくという悪循環になってしまっている。
 自分を犠牲にして相手に気に入られようとすることで生きる意味を見失い、生きる意味を見失ったことで相手に気に入られることが生きる意味になってしまう。その結果、ますます相手に気に入られようとして、いよいよ自分を犠牲にする。いったん悪循環におちいってしまうとなかなか断ち切れない。気に入られることが生きる意味になった人は、何でもいいからその人とは関係のない何か自分の好きなことを作ることである。
 相手はあなたに気に入られることが人生の意味になっていないから、いろいろとあなたに強いことをいう。こんな馬鹿らしいことがあろうか。相手はあなたのために自分を犠牲にしないのに、なぜあなたは相手のために自分を犠牲にするのだ。



“自分の世界”ができれば人は強くなれる
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 甘えるということは、自分の世界がないということである。つまり人から「こう思ってもらいたい」という気持ちが強すぎる。甘えるということは、人から「こうされたい」という欲求のことであろう。自分が人に「こうしたい」ということではない。人から「こう思ってもらいたい」という自分が一方にいる。しかし他人に「こう思ってもらいたい」ということを抜きにすれば、実際に「こうしたいという自分は違う。その二つの自分が離れすぎていることに問題がある。
 甘えとは、人に「こうしてもらいたい」ということである以上、それを満足させられるのは他人である。人に「こう思ってもらいたい」というのも同じである。この依存性が問題を引き起こす。人に「こう思ってもらいたい」といっても、人は必ずしもそのように自分のことを思ってくれるわけではない。そこで、甘えの満たされない人は、不安になったり、怒ったり、すねたり、相手を憎んだり、恨んだりする。(中略)
 しかし、自分の世界ができてくると、その依存性がなくなり、人に対する要求が少なくなる。つまり、「こう思ってもらいたい」「こうしてもらいたい」という要求が少なくなるということである。人が強くなるということは、自分の世界ができるということである。



心理的サド・マゾ関係ができるとき−−無力性性格者の場合
不機嫌になる心理

 無力性性格の者は、ときに自分が軽くあしらわれ、侮辱されているのに、そのことに気づかないということがある。無力性性格者が抑圧したときである。もともと人と対立できない。そこで相手から侮辱されても、そのことを意識するのが恐いということがある。相手からの侮辱を意識することはお互いの関係に波風が立つことでもある。そこで侮辱されてもそれを意識しない。意識しなければお互いの関係は波風が立たない。無力性性格の者は人がよく、やさしいのに、いや人がよく、やさしいが故に利己的な人達からいいように侮辱され、利用され、精神的に搾取される。
 精神的に搾取されるということは、相手が相手の人生の充実のために相手の人生観を押しつけたり、支配したり、束縛したりするということである。それが最もハッキリするのは心理的サド・マゾ関係である。
 相手が相手の心理的無力感を克服するために、無力性性格者を侮辱する。相手は無力性性格者を侮辱することで、心理的な充実感を得ようとするのである。そのような異常な関係であっても、無力性性格者はその関係を断ち切ることができないで侮辱されるにまかせる。



失敗の体験の受け取り方で、人の能力は大きく変わる
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 交渉の失敗でも、事業の失敗でも、離婚でも、失恋でも、入試の不合格でも、体験はいろいろある。その体験によって強烈な心の痛手を受ける人がいる。しかし受ける心の痛手は、その人によって異なるであろう。
 さらに、その受けた心の痛手を処理する仕方は人によって違う。その心の傷にうずくまる人がいる。何もしないで一日中家に閉じ込もる人もいる。友人を誘って憂さ晴らしをする人もいる。次の目標に向かってすぐに行動を始める人もいる。まさに人それぞれである。失敗から受ける失望の大きさは人によって異なる。
 そして、すぐに回復する人と、失望からなかなか回復できない人とがいる。いつまでもその印象が強く心に残る人がいるし、そうでない人もいる。同じ体験で、ある人は、神経が衰弱し生きる気力を失う。くる日もくる日も、そのことを考えてふさぎ込んでいる人もいる。別の人は、その体験の痛手から回復まで、まったく違った経過を辿る。
 体験の受取りその人の印象能力である。人はある体験をして感動したり、刺激を受けたりする。感受性の豊かな人もいれば、そうでない人もいるだろう。人によって同じ体験でも受取り方は違う。受ける印象の強さも違う。またその後の保持能力も違う。さらに、それを発散していく能力である伝導能力も違う。



“あるべき姿”とらわれると自由な発想ができない
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 人間の心理的能力とは、精神力プラス自分の精神力の理解度である。無力性性格者でも、自分が無力性性格の傾向が強いと気がついている人は強い。自分の居場所を間違えないし、神経症的なエネルギーの使い方がない。つまり、自分のあるべき姿にばかり気をとられて、その非現実な目標に向かって無駄なエネルギーを使い、結局、何事も成し得ないという人にはならない。
 そして何よりも心理的に落ち着いている。そして神経症者と違って人とつき合える。その点で精神力プラスその理解度が人間の心理的能力となる。
 一方、神経症者は現実を見ないで、先ずあるべき姿を設定する。自分はこうあるべきだという決めつけである。他人はこうあるべきだという決めつけである。人生はこうあるべきだという決めつけである。遊びはこうあるべきだという決めつけである。家族はこうあるべきだという決めつけである。友人はこうあるべきだという決めつけである。妻はこうあるべきだという決めつけである。夫はこうあるべきだという決めつけである。兄弟はこうあるべきだという決めつけである。先ず初めに決めつけありき。ーーこれが神経症者の特徴である。
 自分はこうあるべきだというとき、現実の自分を見てはいない。自分は無力性性格者的なところがたぶんにある。それであるなら、そのような自分が生きていくのにはどのような生き方が賢明かという発想ではない。


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