加藤諦三の言葉 第5回 [2000/10/12]

古い“不幸”の記憶を一掃し、新しい“幸福”をインプットしよう
「やさしさ」と「冷たさ」の心理
(PHP研究所)

 自分が生きることを楽しみ、自分が幸せいっぱいになる時、障害になるのはどのようなことであろうか。
 それはやはり、小さい頃の体験なのである。小さい頃、たとえば父が病気になった。それでも子供は楽しく遊んでいた。そんな時、母に怒られる。「こんな時になんですか、そんなに笑って」と。
 また、世の中には、他人の不幸によってなぐさめられる人がいる。そんな人のなかで小さい頃育ってくると、自分が楽しむことを自分に許せなくなる。そうしたなかで育つと、惨めそうにしていたり、メソメソしていると可愛がってくれた、などという体験を持つことになる。淋しそうにしていると人から愛される、などということを、心の中で覚えてしまう人もいる。
 そうなると、なかなか自分が幸せいっぱいになることを、自分に許せなくなる。自分が幸せすぎると妙に気がひけて、何か悪いことをしているような気にさえなる。
 大切なのは、そのような古い記憶の一掃である。そして、新しく自分の心の中にインプットするのである。生きることを思い切り楽しむことはよいことだ、幸せいっぱいになることはよいことだ、嬉しい時には思い切り嬉しさを表現することはよいことだ、そして、自分を惨めに見せることで他人の好意を期待するのは止めよう、と自分に約束することである。



自分のウソに気づけば、いい人間関係になる
「やさしさ」と「冷たさ」の心理
(PHP研究所)

 自分がいっていることのウソに自分が気づけば、ほとんどのことはうまくいきはじめる。人間関係がうまくいかないとか、恋人がなかなかできないとか、友達がどうしてもできないとか言っている人は、たいてい自分の言っていることのウソについて自分で気づいていない人である。
 たとえば「私は、自分の恋人には心のやさしい人がいい、と言っている」と言う人がいる。これはそれほどむずかしい条件ではない。大金持ちで、美人で、身長がいくらで、バストがいくらでとなればむずかしいだろうが、心のやさしい人はかなり世の中にいるのだから、出会いの機会はかなりある。
 もし、その人が本当に「外見なんかどうでもいい、それよりも心のやさしい人がいい」と思っていれば、そのような恋人は案外できる者である。ところが、「心がやさしければそれでいい」と言いながら、どうしても恋人ができないという人は、自分の心の底を見つめてみる必要があろう。(中略)
 口では、「性格さえよければ」と言いつつ、なかなか相手の見つからない人は、たいてい自分にウソをついている。「性格さえよければ、あとは特別に条件などない」という言葉自身も、皆に「高慢な人だ」と思われたくないから言っている言葉かもしれない。
 うぬぼれていると思われるのが嫌だから、一見、謙遜に思えることをいっているにすぎないということがある。そうだとすれば、自分の言葉すら失ってしまっているのである。



感謝や同情を要求するのは自分の不安感をやわらげるためである
「自分の居場所」をつくる心理学」 (P.45)
(PHP研究所)

 常に人にある一定の感情を相手が持つことを要求している人がいる。恩着せがましさもその一つである。相手に感謝の気持ちを要求する。相手が自分に感謝してくれないと充実感が得られない。そして相手に大きな感謝を要求するためには、自分がいかに大変であったかを強調するに限る。
 自分の払う犠牲が大きければ大きいほど、相手に大きな感謝の念を要求できると思っている。自分が相手のためにどれほど大きな犠牲を払ったかによって、感謝の気持ちを要求する正当性が得られたと思い込む。
 あるいは人によっては、相手が罪の意識を持つことを要求する人もいる。相手が自分に対して罪悪感を抱くと心理的に安定する。自分に対して相手が「悪かったー」と感じてくれれば気が済む。相手の罪悪感が自分の不安感をやわらげる条件なのである。そうなると相手の罪悪感が深刻であれば深刻であるほど安心する。また不安であれば不安であるほど相手に深刻な罪悪感を要求することになる。
 罪悪感を要求する人と、恩着せがましい人と全く違う人というのではない。同じように心理的に不安な人である。恩着せがましい人も酷い人になると、感謝を通り越して、罪悪感まで要求することもある。「あんなにしてくれて悪いなー」という気持ちを相手が持つことを要求するのである。相手から「申し訳ない」と言われることを期待する。



不安な人は強迫的に愛を求めざるを得ない
「自分の居場所」をつくる心理学」 (P.57)
(PHP研究所)

 恋愛を楽しんでいる人と、恋愛の中で安心感を求めている人では、愛情の求め方が遠う。ただ好きになってお互いに愛し合っているという恋愛と、不安から自分を防衛するために恋愛しているのとでは動機が違う。
 カレン・ホルナイに言わせれば後者は神経症的だということになる。カレン・ホルナイガ面自い例を出している。木に登るのに、登りたいから登るのと、野獣に追いかけられて木に登るのとあるという。自分の力を試してみたい、木登りを楽しみたいという人と、野獣に追いかけられてそれから必死で逃げるために木に登る人がいる。
 恋愛でもその人が好きだから恋愛をするという人と、自分の内心の幕藤を解決しなければ生きていけなくて、ある人に愛情を求める人といる。心の葛藤を解決するための恋はどうしても人に見せるための恋になりがちである。この自分の心の君藤を解決しなければならなくて恋愛する人、不安から自分を守るために恋愛する人、それらの人がまさに相手の愛の言葉を信じられない人なのである。信じられないけれども、信じたい。そこでしつこくなる。
 神経症者は愛情を求める。そう言うと誰でも愛情を求めるという反詮があるだろう。そがはその通りなのである。しかし神経症者のその動機は不安である。不安のない人が恋人に求めるものはまさに愛である。
 それに対して不安な人が恋人に求めるものは安心である。恋人が自分に安心を与えてくれることを求めているのである。強迫的に愛を求めているのである。野獣に追われて木に登る人が木に登らざるを得ないように、不安な人は愛を求めざるを得ないのである。必死なのである。木登りを楽しんでいる人とは全く違う。



安心を求める人は相手にしがみつきながら相手を信じられないという悲劇を背負う
「自分の居場所」をつくる心理学」 (P.59)
(PHP研究所)

 神経症者と恋愛したものが自分が愛されていないということに気が付き出すのも、このためである。確かに神経症者にとって大切なのは相手ではない。相手の幸ぜが問題なのではなく、自分の心の幕藤が問題なのである。自分の心の不安をどう解決するかということが、彼らの最大の間題である。
 野獣に追われて木に登るものは木を選んでなどいられない。自分の身を守ることが大切なのである。
 しかし神経症者自身は自分の愛を普通の人よりはるかに深いものと信じている。これは恋愛と言わず、親子の愛と言わず、友情と言わず皆当てはまることである。どのような場合にも彼らの愛はしつこい。それは、深いからだ。
 彼らは自分の愛というのは、たんに自分か安心するために相手にしかみついているだけであるということに気がつかない。カレン・ホルナイも次のように書いている。
 The love is only the personユs clinging to satisfy his own needs.
 過保護の母親は、子供を愛していると信じている。しかし子供の独立への必要性を無視している。そして自分が子供にしがみついているから子供は親離れできないということに気がつこうとしない。
 相手にしがみついているだけのことを間違って深い愛と思い込んでいる。


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