内づらのわるい人は、相手が監視してもいないし、監視しようともしていないのに、監視されていると感じる。監視されていると感じることはたいへんな束縛感である。相手が自分を縛ろうとしていないのに、縛られていると感じてしまう。一緒にいるというだけで圧迫されている感じになる。自己が自己でなくなる危機にさらされる。そこで個別者としての自己を守ろうと必死になる。となると自閉的な構えにならざるを得ない。ひと言でも余分なことをしゃべるまいとして重苦しく沈黙する。余分なことをしゃべれば、自己侵害に対抗する自分の防衛的姿勢がくずれてしまうからである。そこで文章にならない単語で返事をする。最も少なくしゃべろうとするのは、相手の侵害に対して防衛しようとするからである。内づらがわるいというのは、決して自分の怒りの感情を表現しているのではない。気持ちが通じるのを拒否しているのである。だからといって無関係になろうとしているのでもない。ただ自己の自己性を守ろうとして防衛姿勢になっているだけである。
見られることに弱い、見られると自分がなくなってしまう、相手に吸いこまれてしまう、相手と自分をさえぎる者がなくなってしまう、自分を守ってくれる覆いのない者、それが分裂病者ではなかろうか。相手に見られると、自分の部屋に土足で上がられたのと同じ気持ちになってしまう。相手に「負けてしまう」というのは、相手と接すると自分がなくなってしまうということであろう。「自分がなくなる」とは自我が崩壊してしまうということである。自己が自己自身として成立しないで相手に吸収される。それが偽相互性ではないのか。自己と他者との分離を小さい子供の頃から認められなかった人は、大人になって他者と近づくと自我の解体が起きてしまうのである。自己が自己でなくなる不快さ、その不快さから逃れようとして人は自閉的になる。ここで大切なのは、自他を未分化にさせてしまうのは他者の側ではなく、自分の側であるということである。
さて自分が精神的に半健康で社会的に適応していない人に囲まれているとわかったら何をおいてもその環境から抜けだすことである。とにかく脱出すること。自分の環境は自分で選んでよい。たとえば親孝行はよいことである。しかしこの半健康グループで子供に親孝行を求めることは、おまえは分裂病になれ、君はうつ病になれ、と求めているのと同じなのである。さらにいえば、健康な社会で育った人には、親孝行ということが彼らには不可能であるということはおそらくわからないであろう。それがわかるためには、たとえば二重束縛ということがわからなければならない。しかしそれは、全能の神に向かって、あなたが持ち上げることのできないほど重い石をつくれますか、とたずねるに等しい。健康な人は、この世の中に愛を求めながらも、他人の愛を受け入れる能力のない人がいるということもわかりにくいであろう。この世の中には他人に近づくように求めながら他人を排斥している人がいる。「杖をあげて犬を呼ぶ」という格言がある。この時犬はどうすればよいか。犬には三つの生き方がある。第一は近づいて杖で殴られて死ぬ。第二は近づきもせず逃げもせず、近づかないことを非難されつつ矛盾した要求に身をさらし、ノイローゼになる。第三には逃げだして非難される。さて、どれが正しいであろうか。