私は学生時代にエリート官僚になりたかった時期がある。エリート官僚になることで私は自己栄光化を果たしたかった。エリート官僚は私にとって栄光であった。そしてある時気がついた。エリート官僚こそ父親の劣等感の部分であると言うことに。
私の父親は高文試験という昔の公務員試験を通らないで文部省の官僚になった。政治家としてのお爺さんの力であった。しかしそれでも正式に高文試験をパスしていないから文部省の中では色々な劣等感があった様だ。そして文部省を辞めてこれまたお爺さんの力である大学の教授になった。コネのきく当時の話だから、その大学の学長とお爺さんが親しかったからである。
その劣等感こそが私への期待となった。そしてその期待が、私にそれを栄光と感じさせた。もし私の父親がこうした劣等感を持っていなければ私は高級エリート官僚になることをけっして栄光とは感じなかったろう。
日本の多くの少年少女は、それぞれの親とのそれぞれの関係の中で、それぞれに傷つきながら子供時代を過ごしてくる。だから大人から見るとせっかくの青春を何であの様に愚かに過ごすのだと思う過ごし方をすることも多い。
自分の潜在的な可能性を伸ばすために、何でもできるのに、それをしないで煙草をすって見たり、集まって酒を飲んで見たり、自分が好きでもない職業につこうと努力したりする。
なかには非行に走る。自分の可能性を追及しないで、人の眼を意識した行動ばかりをする。自分を見ないで人が自分をどう思うかばかりを気にしている。
そして自己無価値感に苦しみながら、自分の価値を上げようとして必死で「あいつ等は馬鹿だよ」とか「世の中は、けしからん!」とか叫ぶ。そう叫ぶのは彼らが劣等感に苦しみ、欲求不満だからである。
本当の自信がある人は身構えないで話が出来る。脅える良い子にはならない。楽しい生活をする。利口ぶらない、「馬鹿にされないぞ」と肩肘はらない、心の傷を癒そうと、自分の適性を殺すという犠牲を払って栄光を求めたりしない。
そして人を意識した行動を続けるために、カレン・ホルナイが言う様に本当の自信をつける機会がさらになくなってしまう。それにも関わらず、心の底では彼等はまさにカレン・ホルナイが言う様に必死で自信を求めて居る。
しかし今の行動を続けても決して自信は生まれてこない。そこが彼等の悲劇なのである。先にも書いたとおり触れあえれば自信が出来る。そして自信が出来れば、軽蔑の言葉を浴びせられても傷つかない。