加藤諦三の言葉 第7回 [2000/10/24]

不機嫌は内向して出口を失った怒りの感情
不機嫌になる心理
(PHP研究所)


 ラジオのテレフォン人生相談のパーソナリティーをしていて感じることの一つは、夫の内面の悪さに苦しめられる奥さんの多さである。内面の悪さといっても、単に家に帰って来ると愛想が悪いというような性質のものではない。家でいつもぶすっと黙っているというのではない。家にいることを楽しめない、逆に家にいることが不愉快である、家にいると気持ちが重苦しい、家にいると気持ちが塞がれる、家にいると不安と怒りがいり交じった不機嫌になる、そんな内面の悪さである。(中略)
 そのような夫は、実は軽症の女性恐怖症なのである。彼は近親相姦的固着の病理に苦しめられている。深刻な不機嫌に苦しめられている夫は、母親を恐れているし、女性を恐れている。もちろん、自分が心の底で女性を恐れているとは気がついていない。まさか自分が女性恐怖症だなどとは思ってもみない。自分は女性恐怖症とは無縁だと思っている。
 怒る者は恐れているという。深刻な不機嫌に苦しめられている彼は、女性を恐れている。彼は女性を恐れ、女性に依存し、それ故に女性を怒っている。しかし、女性を恐れ、女性に依存している故に、その怒りを意識できない。怒りは表現されることなく内向する。その出口を失った怒りの感情が不機嫌であろう。




本当に嫌いなのは自分自身という悲劇
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 自分が自分を憎んでいるということは、人間にとって悲劇である。それは孤独をもたらす。自分を憎んでしまった人の人生は淋しい。自分を憎んでしまった人は、抑圧と投影と相手との同一視という心理過程を通して、近い人を自分の分身にしてしまう。そして自分が自分を嫌いなのだから、自分に近い人達は皆嫌いな人になってしまう。ドンファンなどというのは、外からみると一見もてて幸せそうであるが、心の中は不幸な人たちなのであろう。
 もちろん、多くの不幸な人たちは、この心理過程に気づいていない。先ず、自分が自分を憎んでいる、自分が自分に敵意を持っているということに気がついていない。したがって、当然その敵意を相手に向けているということに気がついていない。相手に敵意を持ってしまうのは、相手が自分の分身だからであるということに気がついていない。(中略)
 つまり、そのような人は、日頃実際の自分に対して過度に批判的になっているのである。実際の自分をひどく責めているのである。実際の自分を許していない。





不機嫌な人は相手の不機嫌に敏感になる
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 相手の機嫌に自分の機嫌が左右される。相手の機嫌に自分の機嫌が左右されるからこそ、不機嫌な人は相手の不機嫌に敏感なのである。不機嫌な人は相手の不機嫌に耐えられない。それはそれだけ相手の不機嫌から自分が影響を受けるということである。
 相手に投影的に同一視している以上、相手の気分がこちらの気分に直接影響してきて当たり前であろう。相手は自分と分離した別の人間ではないのである。自分の好きなものを相手は好きではないというような存在ではない。
 自分は相手を見ているつもりになっている。自分は相手と接しているつもりになっている。しかし自分の接しているのは、もう一人の自分でしかない。相手のことを決めつける人というのは、逆に相手から心理的に直接影響を受ける。相手が不愉快そうにしていれば、それに耐えられなくなる相手の不愉快さは直接自分にはね返る。自分も機嫌良くしていられなくなる。それだけに要求の多い人になる。いちいち相手の気持ちに干渉していかざるを得なくなる。




幸せは自責の心理を反省することから始まる。
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 多くの傷ついている人は、まず初めに「自分で自分を責める」という過ちを犯してしまった。多くの傷ついている人は、小さい頃、自分を憎むという重大な間違いを犯した。その間違い故に、大人になってさまざまな人間関係がうまくいかないで、悩み苦しんでいる。自分にやさしくなれない者は、他人にやさしくなれない。傷ついている人は、自分にも怒り、他人にも怒っている。
 自責は恥ずかしさの心理の特徴であり、また欝病者の心理の特徴でもある。私にいわせれば、自責こそ不幸の心理的特徴なのである。もし人が幸せになりたいと本気で願うなら、自責の心理を反省しなければならない。自責という心理的習慣をなくす努力は、まさに幸せへの努力なのである。
 喫煙の習慣を絶つのが困難なように、自責の習慣を絶つのもまた困難である。自責は依存心の結果であるからこそ、そう簡単に絶てない。しかしこれを続けるかぎり幸せになれることはない。



いつも完璧にできることなど何一つない
不機嫌になる心理
(PHP研究所)

 心に迷いがあると緊張する。心の迷いとは、心の中に葛藤があるということである。あれをしようか、やめようかという心の迷いは、不安な緊張で人を疲れさす。あることを始めると別のことをしなければならないように感じ始め、そのことを始めると前のことが気になり出す。結局、何もしないで迷うだけで、疲れて時間がいたずらに過ぎていく。
 どちらにも決められないのは、どちらをしても満足できないからである。またどちをしても完璧にやろうとするからである。どちらをしても完璧にやろうとするからである。どちらをしても完璧になど物事はできるものではない。したがって、あることを始めると、そのことが完璧にできないから別のことをしなければと思うのである。完璧な状態で完璧にやろうとすれば、迷いは避けられない。
 どうも今日は調子が悪いとしたら、その調子の悪いことを受け入れることができて初めて、調子が悪いながらもなんとかその仕事ができるのである。毎日毎日、絶好調などということはない。毎晩毎晩、熟睡などということもない。毎時間毎時間、有効に時間が過ぎていくなどということもない。毎月毎月、神風が吹くような幸運なことがあるわけではない。いつも頭がさえ渡り、体の方は不思議なくらい調子いいなどというわけがない。



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