現実にけっしてためされることのない愛は、常に美しい。彼女の愛の相手は自分である必要はまったくなかったのだ、ということに気づいた時のしらけきった
気分――。ただ献身的な愛の女性に自分を仕立てあげることが、その幻想に酔うことが、本質であったのだとわかった時の、なんとおぞましいことか。そしてナ
ルシシストであったからこそ、ことさらに献身的な愛の女性に自分を仕立てたのだということがわかった時のやりきれなさ。本当は虚栄心の強い女であったから
こそ、逆に自分を献身的な女に仕立てあげたのだ、虚栄心が強いからこそ、その「献身的な女」に酔っているのだとわかってしまった時、なんとしらけること
か。
現実には愛し愛されたのではなく、虚像と虚像の愛でしかないとわかった時のもの哀しさ、うっとうしさ、おぞましさ。「献身的な女」から愛されていたから
こそ、その「献身的な女」というイメージにひかれて愛した自分。愛したのではなく、献身的な愛を計算に入れたうえでの愛でしかなかった自分の愛。本当の愛
であるならば、虚像が打ち破られて現実の醜い女の本性があらわれても、なお愛するはずである。いや、それゆえにこそ燃えるのが、本当の愛だろう。そんな本
当の愛のエネルギーなど、自分のどこをさがしてもないとわかった時の自分への絶望。相手も醜かったけれど、自分も同じように醜い存在でしかないと知った時
の人生。