強迫的名声追求者は誰にも心を開かない。だから誰も彼に心を開かない。自己開示を拒否するから誰とも親しくなれない。したがって強迫的に名誉を追求している人はどうしても挫折しやすい。ストレスが強い状況でいつも追われていれば消耗するに決まっている。燃え尽きないほうが不思議である。
ストレスが強い状況にいる上、親しい友達がいないからストレスにも弱い。ストレスが強い状況に耐えられるのは親しい友達と一緒のときである。お互いに心を開いている友人や恋人がいればストレスにも耐えられる。
彼らには自分の弱さや愚かさを出せる友人や恋人がいない。自分の弱さや愚かさを出せる場所を持っていない。ストレスでまいってしまうのはあたり前である。
親しいということは弱さや愚かさを出すことができるということであるが、同時に弱さや愚かさを表すことで親しい友人ができてくるのである。人が親しくなっていくには、その過程でどうしてもお互いの自己開示が必要となる。強迫的に名誉を追求している人がもっとも苦手なのが、この心を開くということである。
人生の最後に地獄を味わいたくないなら、自分を理想の人間として周囲の人に認めさせようと努力するより、ぶざまな自分の姿のまま行動して、親しい人をつくることである。
自分の心の底をうちあけることはストレスを和らげるばかりでなく、健康にもいい。情緒的ストレスによって現れる身体症状を改善する道でもある。自分の心の底を正直に親しい人にうちあけることは肉体的健康にもいいし、心理的にも楽になる。
イソップ物語にキツネと蛇の話が出てくる。
キツネが自分も蛇のように長くなりたいと思い、蛇の隣に寝て、一生懸命に体を伸ばす。ところがやがて体がビリッと破れる。キツネは死ぬほど頑張ったのである。
同じように死ぬほど頑張っているビジネスマンがいる。誰もキツネに蛇のように長いことを期待していないように、誰もビジネスマンに実力に合わない努力を期待していない。
また、つねに努力、努力で頑張る、人と競争して勝つなどのことが成功に必要と考える人もいるが、実際に仕事で成功している人は違うという。成功しているビジネスマンは週末仕事を家に持ちかえっていないという。
そう考えると、幸せな人とは、自分では頑張っているつもりはないが、はたから見ると頑張っているように見える人をいうのではないだろうか。
愛する人のために働いているとき、人にはエネルギーが湧いてくる。そのエネルギーがはたから見ると頑張っているように見える。そしてそれが本人も予期しない成功を持ってきてくれる。愛は動機とした努力と劣等感を動機とした努力では成果がまったく違う。最後に勝利をもたらすのは愛を動機とした努力である。
人には長所もあれば弱点もある。完全主義の人は自分の弱点ばかりに注意を注いでいる。完全主義の人は悲観主義であることは先に書いたが、彼らは完全な自分を演じることで、自分はつまらない人間であるという感情から目をそむけようとしているのである。弱点があったら価値のない人間であるという間違った価値観に支配されている。「なぜ自分を愛せないのか」という本の中にバーンズ博士のつぎのような文章がある。「成功を目指せ、完璧を目指すな。間違える権利を捨ててはいけない。さもなければ新しい物事を学び、人生を前進させる能力を失ってしまうだろう。完全主義の後ろには恐怖心が潜んでいる。自分の恐怖心に立ち向かい、普通の人間であることを認めれば、逆にもっと幸せになれるし、もっと生産的な人間になれる」
確かに完全を目指すことで、ストレスは強くなる。そしてその結果、ストレスから能力を失い、生産的な人間でなくなる。ストレスの強い人は、自分が普通の人間であってはいやなのである。神経症的自尊心から、自分が普通の人間であることを認められない。「間違える権利を捨ててはいけない」とあるように、私にいわせれば、人は失敗したり、間違えたりするから素晴らしいのである。「茶目っ気がないと窒息する。生真面目では行きづまる。いいかげんが存在の根源である。いいかげんでないものは存在しない」