名声は蛆虫の入っている壷に蓋をするようなものである。神経症型の人は名声さえあればすべてが解決できると思っている。しかし解決できない。だから名声を得ても不幸な人がいるのである。
名声を追求始めると、自分は自分であるという当り前のことが受け入れられなくなる。自分は中堅の会社の課長である、自分は小さな自営の店を持つ人間ある、自分は大企業のエリートコースをはずれたサラリーマンである、自分は地方紙の編集部の普通の記者である、自分は画家になりたかったけれども才能ががなかってのでなれなかった等々と言うことが受け入れられない。
神経症型の人は自分はその様な人間であってはならないと感じる。自分はその様な人間であってはならないと感じるならば、現在の自分ではない人間になるべく強迫的な努力をすることになる。或いは無気力になる。或いはひねくれる。
神経症型の人は自分の能力に不満である。そして実際の能力を認めない。自分はもっともっと能力があると信じ、その様なふりをする。人に自分がその様なすごい能力があるという印象を与えようと必死になる。そして人が自分をその様に扱わないと不愉快である。
自分に満足するということと努力しないということは別である。自分に満足している人の方が自己実現的な努力をする。よく人は不満だから努力する、だから満足はよくないというようなことを言う人がいる。しかしそうした努力の動機は「見返してやりたい」である。復讐を動機とした努力は孤独への道である。自分に満足している人の方が自己実現的な努力をする。自分の適性にあった努力をする。
自分は自分であるということのどうしようもない事実を喜んで受け入れることが出来るか出来ないかに、神経症型の人と健康な人との分かれ目がある。「見返してやりたい」と努力する人は神経症型の人。自分の価値を信じて努力する人は心理的に健康な人。
満足となげやりとは違う。満足と無気力とは違う。満足している人はより自分を伸ばそうと努力をする。神経症型の人は自分でない自分になろうと努力をする。
ではなぜ自分でない自分になろうとするのか。なぜ自分は自分であるということを受け入れられないのか。それは「そうならなければ」愛されないと思っているからである。「そうならなければ」周囲の人々に受け入れられないと思っているからである。
神経症型の人は人から気に入られるためには実際の自分では無理だと思っている。だから自分ではない自分になろうと努力するのである。
神経症型の人の「自分の理想像への執着」とは周囲の人にこう扱ってもらいたいという事への執着である。周囲の人が自分をそう見てもらいたい、そう扱ってもらいたいという願望である。実際の自分では周囲の人は自分をそう扱ってくれないと言うことである。
ある女性である。自分の知り合いがラジオに出ている。すると自分もラジオに出たがる。なぜラジオに出たがるのかを見ていると、彼女はラジオに出る方が周囲の人が自分の望み通りに自分を扱ってくれると思っているからである。
つまりこの女性は周囲の人々と心が触れていない。つまり心が触れ合ったときに「自分の理想像への執着」がなくなる。心が触れれば、そうならなくても自分は大切にされると言うことが理解できるからである。
自分が大切にされないのは、ラジオに出演していないからではなく、思いやりのない性格だからだと言うことが彼女には理解できない。彼女は夫と子供の誕生祝いを忘れても自分の誕生日は決して忘れない。その性格が周囲の人から嫌われているのである。しかし彼女は自分は友達のようにラジオに出演していないから、その友達のように好かれないのだろうと錯覚している。