例え望むだけの成功をして見返したと思っても、その時点での屈辱感を癒すものでしかない。その成功は長い人生の収穫になるものではない。自分のコンプレックスを処理しておかなければ、またすぐに惨めになる。
自分の理想像に執着しているという事は、例えば川を渡るのに、ある渡る場所に執着しているようなものである。川の向こう岸に行きたい。そんなときに川幅の狭いところを選んで渡ればわたれるのに、ある川幅の広い箇所を渡ろうと執着しているような人である。そういう人をはたから見ているとどう見えるか。愚かとしか見えない。しかし本人は狭い川幅の所を渡る人を蔑んでいたりする。
心理的に病んでいる人はこの川幅の広いところを渡らなければ幸せになれないと思いこんでいる人である。苦労すれば幸せになれると錯覚している。
例えばノイローゼになるエリート官僚などにそうした狭い川幅を渡ることを奨めると「そうした負け犬の生き方はイヤだ」と言うことがある。しかし彼はそうした生き方を負け犬の生き方と軽蔑しなければ生きていけないほど深刻な劣等感を持っているという事なのである。それだけ苦しいと言うことなのである。
人を軽蔑しなければ生きていけない人は多い。カレンホルナイは神経症的名声追及の過程には復讐的勝利への衝動が隠されていると指摘している。強迫的に名声を求める人は心の底に屈辱感を抑圧している。
不安と強迫性とを関係して考えられるなら、自分が富や名誉に対して強迫的になった時、自分には自分が気がついていない何があるのだと反省してみることが出来る。何で自分はこんなにまで名声を追及するのかと言う反省である。今自分は死の路を歩いていると自覚できる。
軽い心の傷は大抵の人が認める。しかし深刻な心の傷はどうしても認められないことが多い。心の傷が深刻であれば深刻であるほど人はその傷を認めることを拒否する。その失意の体験は抑圧される。失恋に際して初恋の人を憎んだり、軽蔑したりして、自分の心の傷と直面することを避ける。例えば「あんな不美人と別れられてせいせいした、、」等などと言って失恋の悲しみから目を背ける。親に心理的に依存している人は、親から受けた嘲笑を無意識の領域へと追いやる。
いずれにしても小さい頃、或いは若い頃の挫折を人は受け入れることを避けようとする。その様に逃避することで実際の自分を受け入れることが出来なくなる。その逃避が最終的にその人の心身の消耗へとつながっていく。実際の自分がなれるもので満足するという心理的な健康さを失ってしまう。