ところで私は若い頃なぜ実際の自分を受け入れなかったのであろうか。なぜ非現実的な期待を自分にかけて、それに固執していたのであろうかな。なぜ実際の自分の能力で満足して、その自分の可能性を実現していくことに喜びを感じなかったのであろうか。自己現実に喜びを感じないで、非現実的な高い理想にばかしこだわって悩んでいたのであろうか。
それは心の底で父親と対決することを恐れていたからである。私がその様に非現実的なほど高い期待をかなえて初めて私は父親に認めてもらえた。私は父親の賞賛を得るためにはその様に非現実的なほど高い基準で自分を評価しなければならなかった。
父親の承認無しに生きて行かれない私にしてみれば、その非現実的な理想に固執せざるを得なかったのである。私が実際の自分を受け入れると言うことは父親と対決することであり、父親の承認無しに生きて行くことであった。私がそれを避けようとする限り私は何時までも自分の想像の中で作り上げた理想的自己像にこだわらなければならなかった。何時までも実際の自分を拒否しなければならなかった。
実際の自分を受け入れることと親からの心理的離乳とは同時に起きる。私が親からの心理的離乳を完成できず、何時までも心理的に依存している限り、私は実際の自分を憎み続けなければならなかったのである。
ありのままの私は愛されるに値しないと言う感じ方を避けるために私は自分が理想の自分であると自分にいい続けなければならなかった。心の底ではありのままの私は愛されるに値しない、立派な人は成功した私しか愛されるに値しないと感じていたのである。
当時の私には立派な人で、ありのままの私を愛してくれる人などこの世にいることはとうてい信じられなかった。そんなことを言う人がいれば、それは私をからかっているのか、気がおかしい人としか思えなかった。それ程までに私の自己無価値感は強かった。
私は肉親の愛と言うものを知らないで育った。肉親の愛とはどんなに欠点、弱点があっても[そのお前が素晴らしい]と思ってくれる事である。肉親の愛を知っている人は神経症にはならない。なぜなら愛されるためには今の自分のそのままで何も不足はしていないと感じているからである。強迫的に名誉など求めはいしない。