困難を解決するのに安易な道を選ぼうとするのがノイローゼだというオーストリアの精神医学者ウルフの指摘がある。ウルフの言葉を使えばこの筆者は躊躇ノイローゼというものである。
この筆者は自分の人生に具体的な解決策を見つけるということに後込みしている。具体的に自分の目的を見つけようとはしていない。「私はこれをする」という目的がない。書いていることが、最後まで、人に対するお説教である。
ちょうど、企画を立てるが、実際には何も実現に動かない編集者に似ている。いい企画を立てたなら、それを誰に書いてもらうかを考えなければならない。そしてその人に接触しなければならない。そしてその人にこちらの意図を説明をし、その人に書いてもらわなければならない。その人がこちらの思うように書けないのは決まっている。そこから、実現への努力が始まる。
こういう人はこちらの思ったとおりに書いてくれる人が見つからないと「出来ません」という編集者である。「企画だけなら、誰でも出せる」といっては少し大袈裟だが、素晴しい企画なら多くの編集者がたてられる。肝心なことはその実現のためのエネルギーである。
これはもちろん会社の企画でも言える。ある会社がアメリカのどこかの会社とのネットワークをもつ企画を立てた。そこまではいい。「アメリカのある会社とのネットワークを」と言う案そのものはいい。しかしそれを実行する人が居ない。自分の会社とネットワークをもってくれる会社を探しにアメリカに飛び出していく人が居ない。
学者でも同じである。こういう研究ネットワークを作ってこうすればいいという教授は沢山居る。しかしそういう研究のネットワークを実際に作る教授は少ない。
苦しみ抜き、悩み抜き、恨み抜いて死んで行った、この筆者も同じなのである。「自分の条件にかなった目的をもって生きること」と書くことはいい。しかし自分がこれを実行しない。だからいつまで経っても悩みから抜け切れないのである。80才を過ぎてもますます悩みは深刻になるだけである。
そしてさらに筆者は決断不能、実行の引き伸ばしである。この筆者は躊躇ノイローゼである。ウルフによれば躊躇ノイローゼとは「もし自分がいつまでも待っていれば、その障害が消えてなくなるか、何か運命の神があらわれてそれを解決してくれると思うこと」である。
この筆者は自分の行き詰まった人生の具体的な解決法をまったく考えていない。離婚するのでもいい、自分の趣味を見つけるのでもいい、家を出て一人になるのでもいい、歳をとっているが勉強を始めるのでもいい、何かをすればよかった。彼はただ他人の不幸を見ているだけである。だから自分の苦しみを根本から癒せないのである。この人は他人の不運で自分は頑張ろうとしている。